message-2011/10/30
10月30日 『祈りの家』 マルコによる福音書11章12~26節
11:12 翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
11:13 そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。
11:14 そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
11:15 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、
11:16 また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。
11:17 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。
11:18 祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである。
11:19 夕方になると、イエスと弟子たちとは、いつものように都の外に出て行った。
11:20 朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。
11:21 そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。
11:22 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。
11:23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
11:24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
11:25 また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。
11:26 〔もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう〕」。
イエス様は、「わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである」(17節)とおっしゃいました。
エルサレムの神殿の庭は、異邦人の礼拝場所であったとも言われています。その場所が、強盗のような私利私欲に駆られた商売人達に占拠されていることが、イエス様の心を悲しませ、怒りをこのような形で現されたと思われます。(15、16節)
主を礼拝し、祈ることの絶大な価値を忘れてはいけないということを、現代の教会にも主は語っておられると思います。
この後、イエス様は弟子達と共にエルサレムを出て帰路につきますが、その途中で、イエス様は弟子達に祈りについて教えられました。
まず、山をも動かす信仰の祈りについて語られました。山のように人の力によっては決して動くことがないような事柄であっても、神様を信じて祈るならば、山が動き出して海の中に入っていくかのように、祈ったことが実現するということでした。
そして、に祈るときには、誰かを赦さずに恨んでいる心の状態で祈ってはいけない、その人を赦してから祈ることが大切であることを教えられました。
私たちも、自分の力ではどうにもならない山のような課題や問題やがあったとしても、神様には何でもできないことはないと信頼して、信仰を持って祈ること、そして、祈るときには、心の中で誰かを赦していない罪があれば、そのことを主に告白して、悔い改めて、その人を赦し、神様との正しい関係の中で祈ることを日々の生活で実践するように、イエス様が私たちにも勧められておられることとして受け止めることができます。
イエス様が語られた、祈りの基本の教えを忠実に実践する者になりたいです。ご一緒に祈りましょう。ハレルヤ!