message-2011/11/13
11月13日 『真実であること』 マルコによる福音書28~44節
12:28 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
12:32 そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。
12:33 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。
12:34 イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
12:35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。
12:37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。
12:38 イエスはその教の中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、
12:39 また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。
12:40 また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
12:41 イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を 投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。
12:42 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
12:43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
12:44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
イエス様は真実な方です。私たちが不真実な者であったとしても、主は常に私たちに真実を尽くしてくださる方です(Ⅱテモテ2:13)。私たちは、そのイエス様に倣う者であります。
イエス様は、父なる神様の救いの計画を成し遂げるために救い主として、神でありながら人となられて、父なる神様からこの世に遣わされました。イエス様は、十字架の死に至るまで、父なる神様に従順でした。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(12:30)の戒めを実践して仕えられました。また、父なる神様の御心を行って隣人を愛しました。
イエス様に質問してきたひとりの律法学者(28~33節)は、11章27節から12章27節に登場している祭司長、律法学者、長老たち、パリサイ人、ヘロデ党の人たち、サドカイ人のように、イエス様を憎み、殺す計画を持って、捕まえる口実をつかむために質問してきた人たちとは違って、純粋に真理を探究する姿勢で質問してきました。
彼に対してイエス様は、「あなたは神の国から遠くない」(34節)とおっしゃいました。しかし、その後で、詩篇110編1節を引用してその言葉の解釈をされました。そして、律法学者の本質的な偽善に気をつけるように大勢の群衆に教えられました。「神の国から遠くない」と言われたあの律法学者の中にもやはりその偽善の種があったのかもしれません。
その後、イエス様は大勢の人たちが神殿の献金箱に献金している様子をごらんになって、弟子達を呼び寄せて、生活費の全部であるレプタ2枚(一日の賃金の128分の2の価)を献金した婦人を指して、金持ち達が沢山の献金をしているにも関わらず、その婦人が、誰よりも多くのものを捧げていると言われました。その婦人の中に、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛する」真実な姿を見出しておられたからであると思います。全身全霊をもって主を愛する真実な姿は、他の人にはわからなくても、主はご存知です。
私たちの真実な生き方は、イエス様の真実の基準に照らされてこそ正しい評価を頂くことができると言えます。人の基準、自分の基準で自分の真実を測って、「あの人よりは真実」、「以前よりは真実」などのような評価を自分で下しているならば、イエス様の真実に近づくことはできないでしょう。
真実なイエス様を見上げる時、私たちは、自分が罪に誘惑されやすい、主に対して、自分に対して、隣人に対して不真実になりやすい者であることが明らかにされます。それに対して、イエス様はいつも真実に私たちを愛し、見捨てないお方であることを知り、感動を覚え、悔い改めに導かれて、自分もイエス様のような真実な者になりたいという飢え渇きが起こるのではないでしょうか。
イエス様のような真実の実を結ぶことができるように祈るものであります。共に祈ってまいりましょう。ハレルヤ!