message-2011/12/18

12月18日 『神われらと共にいます』 ヨハネの第一の手紙4章11~16節

4:11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
4:12 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
4:13 神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。
4:14 わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。
4:15 もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。
4:16 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。

 上記の聖書の言葉から、イエス・キリストにより、「神われらと共にいます」(マタイ1:23)という偉大な事実が実現したことを思い、私たちは、新鮮な感動をもってクリスマスを迎える者でありたいと思います。

 そして、今、イエス・キリストを救い主と信じる者たちの内に、神の霊である聖霊により、「神われらと共にいます」ということが実現していることも感動をもって受けとめたいと思います。

 私たちには、イエス様を救い主と信じることと、信じないこととを選択する自由意志が与えられています。それは、罪赦されて神様との愛の関係の中で生きていくか、罪が赦されないまま神様と無関係で生きていくかの選択でもあります。

 時に私たちは、人にどのように思われるかということを恐れて、イエス様を信じることを選択することが困難になったり、また、イエス様を信じていることを公にすることが困難になったりすることがあるかもしれません。

 私たちは、人からどのように思われるかを恐れずに、自分の信仰を告白することを、マルコによる福音書15章42~47節のアリマタヤのヨセフから学びたいと思います。

15:42 さて、すでに夕がたになったが、その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、
15:43 アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。
15:44 ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。
15:45 そして、百卒長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。
15:46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い求め、イエスをとりおろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがしておいた。
15:47 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスが納められた場所を見とどけた。

 

 アリマタヤのヨセフは、ユダヤ人の最高議会であるサンヘドリンの有力な議員であり、神の国を待ち望み、ひそかにイエス様の弟子となっていた人でありました。アリマタヤというのは彼の出身地名であったようです。彼は善良で道徳的にも正しい人で金持ちでもあったとルカ福音書に記されています。

 彼は、かつては人を恐れて、イエス様を信じて弟子となっていることを公けにはしていなかった人でしたが、イエス様の十字架の死を目の当たりにして、十字架で死なれたイエス様の遺体を引き取ることを、大胆に総督ピラトに願い出ました。このことで彼は、イエス様を殺すために一致団結していたユダヤ人の指導者達から非難と何らかの迫害を受けることを覚悟していたことでしょう。しかし、彼は臆することなく、そのように願い出て、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って丁重にイエス様に仕え、遺体を自分の所有の新しい墓に納めました。

 イエス様の十字架の死により、彼は人を恐れず、イエス様と自分との関係を明らかにしました。イエス様こそ救い主であり、「神われらと共にいます」ことを実現された方であることに対するゆるぎない信仰があったのだと思います。そうでなければ、このような大胆な行動はできないと思います。

 私たちも、イエス様を救い主と信じる信仰を、人を恐れることなく大胆に明らかにして、イエス様によって神と共に生きている自分であることを証しする信仰者でありたいと思います。そのために、助け主の聖霊が私たちに「神われらと共にいます」ことを教えてくださり、証しすることを助けてくださいます。聖霊により注がれている神様の愛によって臆することなく、救い主イエス様を証ししていきましょう。ハレルヤ!