message-2011/5/29

5月29日 『ただ信じる』  マルコによる福音書5章21~43節

5:21 イエスがまた舟で向こう岸へ渡られると、大ぜいの群衆がみもとに集まってきた。イエスは海べにおられた。
5:22 そこへ、会堂司のひとりであるヤイロという者がきて、イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し、
5:23 しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。
5:24 そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて行った。
5:25 さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。
5:27 この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。
5:28 それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。
5:29 すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。
5:30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。
5:31 そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。
5:32 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。
5:33 その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。
5:34 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
5:35 イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。
5:36 イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。
5:37 そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。
5:38 彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをごらんになり、
5:39 内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。
5:41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。
5:42 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。
5:43 イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。

 この聖書記事には、イエス様に対する強い信仰を持っている二人の人が登場します。

 会堂司ヤイロは、今にも死にそうな娘を何とかして助けていただきたく思い、イエス様の足元にひれ伏して、一緒に家に来て、娘に手を置いて祈って頂くことをしきりにお願いします。

 長血(婦人特有の病気)を患っている女性は、イエス様のみ衣にさわれば癒されると信じて、イエスの周りに集まった群衆に紛れてイエス様の着物にさわって癒されました。

 この二人の信仰者に共通するのは、イエス様なら癒してくださる、イエス様だけが癒してくださる方であると強く信じる信仰があることです。

 また、彼らにはあきらめない信仰がありました。

 長血の病気を患っている女性は、当時のユダヤ人社会では汚れている者とみなされる存在でした。また12年もの間、多くの医者にかかっていましたが、悪くなる一方であり、その医療費のために財産を使い果たしてしまっているという悲惨な状況でした。しかし、彼女はあきらめずに、公に身をさらさない方法で何とかしてイエス様の着物にさわろうとしました。そして、信仰によって着物にさわり、癒されました。

 会堂司ヤイロは、自分の家から来た人々から、「あなたの娘はなくなりました…」と言われて絶望し、イエス様をお連れする意味を失っていた時、イエス様に、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われて、あきらめることなくイエス様を自分の家にお連れして、娘を助けていただくきました。

 私たちの信仰生活においても、主の御心と信じて強い信仰を頂いて一歩踏み出していくことがあります。しかし、そのことを実現することが非常に困難と思われる状況におかれた時、強かった信仰が萎えてしまうことがあります。そのような状況の中で、主は私たちに、あきらめないで信じ続けることを求めておられます。

 主の御心と信じて一歩踏み出した私たちの信仰をくじかせるようなことが起こるとき、それは多くの場合、身近な人からのごく当たり前の常識的な言葉や態度によって起こることがあります。そのような時、私たちはイエス様の姿から対処法を学ぶことができます。

 イエス様は、自分の着物にさわった人を探そうとした時に弟子達から、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかとおっしゃるのですか」と言われましたが、その言葉を気にせず探し続けました。

 ヤイロの家の人々がヤイロに言っている、「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすにはおよびますまい」という言葉をイエス様は聞き流しました。

 ヤイロの家に行き、そこにいる人たちにイエス様が、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」と言われた時、そこにいる人たちにあざ笑われましたが、その人たちを家から出して、娘の両親と供の弟子達だけを連れて娘のところひ行き、娘を癒されました。

 イエス様は、父なる神様とひとつ心で御心を実現して行かれてたので、周りの人たちからの、一般的な考え方ではごく普通の当たり前の常識的な言葉や態度が、御心の実現を妨げるものであると判断された場合は、無視して人の常識を超えた御心を行われました。

 私たちは、イエス様のように完全ではないので、そのような時には気落ちして、信仰が萎えてしまうことが当然起こります。また、自分の正しさを主張して意固地になってしまうことがあります。そのような時、自分の不完全さをわきまえつつ、イエス様のところに行って(祈りの中で)、主の御心は何であるかをもう一度問い直して、悔い改めるところがあれば悔い改めて、主の御心を再確認して、そのことを実現していくために必要な具体的な時と方法を教えて頂き、確信を頂いて、あきらめない信仰へと導かれていくのではないでしょうか。

 あきらめないで、だだ信じ続けることができるようになりたいものです。ハレルヤ!