message-2012/10/28

2012年10月28日 『忍耐の祈り』 ダニエル書10章1~3節

10:1 ペルシャの王クロスの第三年に、ベルテシャザルと名づけられたダニエルに、一つの言葉が啓示されたが、その言葉は真実であり、大いなる戦いを意味するものであった。彼はその言葉に心を留め、その幻を悟った。
10:2 そのころ、われダニエルは三週の間、悲しんでいた。
10:3 すなわち三週間の全く満ちるまでは、うまい物を食べず、肉と酒とを口にせず、また身に油を塗らなかった。

 ダニエルは、啓示された「大いなる戦いに関する言葉と幻」(1節)のために、三週の間、喪に服したように悲しんで祈っていました。

 三週間後、ダニエルのもとに人の姿をした神様の御使いが現れて、「大いなる戦いに関する言葉と幻」について、ダニエルに語ってくれました。(10:4~12:4)

 しかし、ダニエルは、「大いなる戦いの言葉と幻」についての説明を聞いたけれども悟ることができませんでした。

 私たちは、未来に起こる出来事を知ることはできませんが、ダニエルのように、自分のため、他の人のため、自分の国のため、世界のために祈るように導かれることがあります。

 神様からの幻(ビジョン)を与えられて祈っていても、そのことの意味をすぐに理解することが困難な場合もあります。

 私たちも、ダニエルほどではないかもしれませんが、祈りの応えを見出すまで粘り強く祈るように導かれることがあります。そして、神様が何らかの方法で祈りに応えてくださることを体験することができます。しかし、祈りの応えが、ダニエルのように理解することができない場合もあるかもしれません。

 祈っても充分にわからないことがあるけれども、神様に信頼して従っていくにということは、信仰による絶えざる祈りが必要です。神様に信頼し続ける忍耐の祈りとも言えるかもしれません。

 そのような忍耐の祈りができるのは、神様の御使いが語ってくれた言葉で、「大いに愛せられる人ダニエルよ、わたしがあなたに告げる言葉に心を留め、立ちあがりなさい。わたしは今あなたのもとにつかわされたのです」(19節)にあるように、神様に愛されていることを知ることが大前提にあります。

 また、ダニエルと神の御使いとのやり取りから、

[ そこで、われダニエルが見ていると、ほかにまたふたりの者があって、ひとりは川のこなたの岸に、ひとりは川のかなたの岸に立っていた。 わたしは、かの亜麻布を着て川の水の上にいる人にむかって言った、「この異常なできごとは、いつになって終るでしょうか」と。 かの亜麻布を着て、川の水の上にいた人が、天に向かって、その右の手と左の手をあげ、永遠に生ける者をさして誓い、それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民を打ち砕く力が消え去る時に、これらの事はみな成就するだろうと言うのを、わたしは聞いた。 わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった。わたしは言った、「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」。 彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。 多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。 常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。 待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです。 しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」。](12:5~13)

とあるように、「たとえ、わからないことがあったとしても、神様に従ってあなたの歩むべき道を歩むなら祝福を受けるでしょう」との約束の言葉をいただくことにより、神様は、私たちを愛し、祝福をあたえることを計画してくださっていることを確信して、平安の中を歩むことができます。

 神様が愛してくださっていること、神様が祝福してくださることを信じて、どのような状況におかれたとしても、神様に信頼し続ける忍耐の祈りを捧げる者となりましょう。ハレルヤ!