message-2025/02/23
『キリストにあって天幕を広げる』 イザヤ書53章、54章、ペテロの第1の手紙2章18節~3章18節、コリント人への第2の手紙3章12~18節
1だれがわれわれの聞いたことを
信じ得たか。
主の腕は、だれにあらわれたか。
2彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
3彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
4まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
6われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
7彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
8彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
9彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
10しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
11彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
12それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。イザヤ書53章
18僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。 19もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。 20悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。 21あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。 22キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。 23ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。 24さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。 25あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。
ペテロの第一の手紙2章
「メッセージ要約」
先週の教会総会の恵みを感謝します。この度も、今年度の教団標語の聖句から
「天幕を広げる」ことにつて考えてみましょう。それは、自分の器、また、教会の器を
広げるということでもあります。
① 救い主預言 (53章)
神でありながら人となられた(1~2)
私たちの罪を負われた(3~7)
私たちが受けるべき罪の罰を身代わりとなって受けられた(8~9)
救い主イエスの十字架上の死は、私たちの罪を赦すためである(10~12)
② 救い主イエスを信じる信仰による喜びと繁栄 (54章)
救い主イエスによって天幕を広げ、綱を長くし、杭を強固にされる
霊的な喜びと繁栄は、救い主イエスによって罪が赦され義とされているから
イスラエル民族は父なる神の妻…教会は救い主イエスの花嫁…関係性
③ 聖霊の宮(天幕)としての自分、教会の器を広げる訓練(Ⅰペテロ2:18~3;18)
自分が遣わされ、置かれた場所での訓練(2:18~21、3:1~18)
すべてのことを正しく裁かれる父なる神様にいっさいを委ねる(2:22~23)
キリストが死なれたのは、私たちに罪の赦しを与えて、私たちが父なる神に義
(正しい)と認められるためである(2:24~25)
私たちに与えられている訓練は、救い主イエス様に似る者に変えられて行くための
訓練です。その訓練は生活の場で行われます。私たちに必要なのは主からの訓練
を受ける者としての自覚と、いっさいのことを正しく裁くことがおできになる主にお委ね
する忍耐です。その訓練を通して私たちは変えられて、聖霊の宮としての器を広げて
頂き、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられ続けるのです。(Ⅱコリント3:12~18) ハレルヤ!
----------------------------
聖書の引用箇所について詳しく確認されたい方は
以下サイトもご活用ください。
■「聴くドラマ聖書」
https://graceandmercy.or.jp/app
----------------------------