message-2014/8/3
2014年8月3日 『赦すということ』 ヘブル人への手紙10章12~22節
10:12 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、
10:13 それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。
10:14 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。
10:15 聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、
10:16 「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」と言い、
10:17 さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。
10:18 これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。
10:19 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
10:20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、
10:21 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、
10:22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。
私たちは、「赦す」ということを神様から学びたいと思います。
それは、自分が神様に「赦されている」ということを体験することから始まります。
イエス・キリストは私たちの罪を赦すために、約二千年前に神の子でありながら人の姿をとってお生まれになりました。そして、およそ33歳のときに、私たち全人類の罪をその身に負われ、ご自身は何一つ罪を犯されなかったのに、私たちの身代わりとなって罪の罰を十字架刑により受けてくださり死なれたのです。そして、三日目によみがえり、40日目に天に昇られ、イエス・キリストは今も生きておられる救い主です。イエス様は、ご自分を救い主と信じる者に罪の赦しを与える道を開いてくださいました。聖書にはその約束が記されています。
イエス様による「赦し」の恵みは、完全な「赦し」であって、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」(17節)とあるように、罪を思いださないと言われるのです。
また、「赦し」を与えた者に対して、「わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。」(19~22節)とあるように、親しい関係を持っていてくださるのです。
私たちは、自分に害を与えた人を赦したとしても、その人がしたことを全く忘れるということができない者です。また、その人と親しい関係を築いていくことのむずかしさを感じる者です。
しかし、イエス様による神様の赦しは、赦した人のしたことを思い出さず、その人との親しい関係を望むというものです。
そのような完全な「赦し」は、イエス様に倣う信仰生活の中での訓練によって学んでいくものです。私たちは、地上での歩みの中で「赦す」という訓練と学びをしっかりと受けてまいりましょう。ハレルヤ!