message-2014/8/17
2014年8月17日 『赦されているということ』 ローマ人への手紙3章22~28節
3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
3:25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
3:26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
3:27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
私たちは、さまざまな人間関係の中で、「赦されている」ということを体験します。
私自身も、間違い、失敗、健康面の問題、未熟な経験、未成熟な人格など、沢山周りの方々に赦されて生きています。
私たちは先ず、親子関係の中で赦されているということを体験しています。こんなに取るに足りない者なのに、こんなにも愛してくれているということを感じて、驚きと感謝と畏敬を持つことがあります。
それでも親は限界のある人間ですので、許容量に限界があります。時と場合によって変わることもあるでしょう。また、永遠に元気で存在するということはありません。しかし、このことから私たちは、親の愛以上に私たちを愛し、赦し、受け入れてくださっている神様がおられることの恵みを実感し、感謝するものでもあります。
神様には限界がありません。永遠のお方です。イエス様を救い主と信じる信仰によって、天地万物を創造された神様と親子関係が結ばれて、「お父さん」と祈りの中で呼びかけることができるようになるのです。
人間関係において「赦されている」体験は、イエス様による永遠の神様の赦しの偉大さを垣間見るときでもあります。
永遠に変わることのない神様の愛と赦しを、イエス様によって受け取っていることを感謝しましょう。ハレルヤ!