message-2011/7/24

7月24日 『人の言い伝え』 マルコによる福音書7章1~23節

7:1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。
7:2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。
7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。
7:4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。
7:5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。
7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。
7:10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
7:11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、
7:12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。
7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。
7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。
7:15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。
7:16 〔聞く耳のある者は聞くがよい〕」。
7:17 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。
7:18 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。
7:19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。
7:20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。
7:21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。
7:23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。

 パリサイ派の人達と律法学者達が、エルサレムから、ガリラヤ地方で福音宣教をしているイエスのところに集まってきました。おそらく、イエスの教えとそれに伴う力ある業の噂がガリラヤ地方に広まり、彼らの耳にも入り、自分達とは違う教えを説いているイエスに、人々が感化されていくことを良しとしない彼らは、イエスの働きを妨害しようとして、また、イエスを捕らえる口実見つけようとして集まって来たと思われます。

 彼らは、イエスの弟子達が、ユダヤ人の宗教的なきよめの規則である食事前に手を洗うことをしていないのを見て、イエスに、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」(5節)と問いかけました。

 そのような彼らにイエスは、「あなたがた偽善者…」(6節)と呼びかけて、預言者イザヤの言葉を引用しました。、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』(イザヤ29:13) あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」(6~8節)

 そして、彼らの恒常的な偽善について、一つの例として、シナイ山でモーセが神から授かった言葉を引用して(出エジプト20:12、21:17)、的外れな彼らの偽善的な信仰生活を指摘しました。(9~13節)

 彼らの信仰生活は偽善に満ちており、彼らの心の思いと言動は、「 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」(8節)、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ」(9節)、「あなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」(13節)とイエスが仰ったとおりです。それは、預言者イザヤがあなたがたのことを適切に預言しているとイエスが仰っていることでもあります。(6~7節、イザヤ29:13)。彼らの宗教8的な生活は、見えるところは非常に神に対して敬虔でありますが、彼らの心は、すべての源である神から離れてしまっているということでした。

 イエスの彼らへの大胆な罪の指摘には、何とも言えない爽快感がありますが、私達人間は、基本的に皆もれなく偽善者であるということも指摘されていると思います。

 私自身も気を付けていないと、自然と「ええかっこしぃー」になってしまうものであります。私が偽善に気を付けるときの診断ポイントは、

 ① 人から偽善(罪)を指摘された時に「そんなこと無い」と抵抗する心の動きがあるとき……謙虚に「どこがですか?」と聞いてみると良いから。

 ② 自分がした善をいつまでも覚えているとき……「自分はこれだけのことをしてあげた」という、見返りを求める下心があるから。

 ③ 思っていること、言うこと、していることの差が無いかどうか……まったく差が無いことはありえないが、その差を小さくするようにはできるから。

 信仰者として、偽善の罪はしたくないと思うので、主に心を明け渡して心を探っていただき、主に喜ばれない偽善があれば悔い改めて、イエスによる赦しを受け取っていく者でありたいと願います。

 自分をよく見せるために心が神から離れ、形式的に人の言い伝えを守る偽善者になるのではなく、私たちの心の思い(21~22節)をすべて知っておられる主を畏れ、主によって心をきよめて頂いて生活しましょう。ハレルヤ!