message-2011/7/3

7月3日 『悔い改めを宣べ伝える』 マルコによる福音書6章6~13節

6:6 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。
6:7 また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、
6:8 また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、
6:9 ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。
6:10 そして彼らに言われた、「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい。
6:11 また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」。
6:12 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、
6:13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。

 イエス様は、12人のお弟子さん達にイエスの名による権威を与えて、二人一組で附近の村々に遣わしました。遣わされた弟子達は、12節、13節にあるように、「そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。」という働きをしました。

 今日は、彼らの宣教活動である「悔い改めを宣べ伝える」ことに注目したいと思います。

 「悔い改め」とは、罪から立ち返って神に心を向ける決心をすることであり、それは、心を180度方向転換して、神に従う決心をすることでもあります。

 そのような悔い改めの過程を経て、福音を信じる信仰に至るのが救いの体験です。福音を信じるとは、救い主イエス・キリストを信じることです。私たちが、イエス・キリストを自分の人生の主として心にお迎えして、イエスに信頼して従う人生を送ろうと決心するならば、私たちは先ず、救われる前に信頼していた様々な偶像を捨てる必要があります。

 私の場合は、占いに関する本「星占い」「手相占い」「姓名判断」などを捨てました。私たちの心の中に、イエス様以上に頼っているものが存在するならば、それが偶像です。偶像礼拝は罪なので、そのことを悔い改める必要があります。

 悔い改めを必要とするのは、初めてイエス様を信じる決心をした救いの体験の時だけではありません。信仰生活の日常の中でもその機会は常にあります。

 神様との関係を壊すものは、私たちの罪です。救われている者の内にお住まいになる神の霊である聖霊により、私たちは神様の教えに従っていない心の動き、言動を教えていただくことがあります。それは、神様との関係を妨げている罪を指摘されているということでもあります。そのような時は、罪を認めて、神様に告白し、イエスによる罪の赦しを受け取る時です。このような悔い改めを生活の中で丁寧に実行していくことが、神様との関係をいつも平和に保つ秘訣です。

 ヨハネの第一の手紙1章7節~2章1節にこのような言葉があります。

1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
2:1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。

 

 私たちの救い主イエス様は、私たちがいつでも罪を認めて告白し、悔い改めるならば、必ず赦しの道を開いてくださいます。ハレルヤ!

 それゆえに、私たちは、罪を認めて悔い改めてイエス様の救いを確信していく時に、主の救いの御業に感動し、感謝を捧げて、ますます主を愛する者になっていきます。

 悔い改めに導かれることは悲しみを伴うことではありますが、神の御心に添った悲しみは、イエス・キリストによる救いをますます確信するものとなり、多くの罪を赦されていることを知って、多く主を愛する者に変えられていきます(Ⅱコリント7:10~11、ルカ7:36~50)。そのような体験をしていくとき、悔い改めに導かれることも、神様の恵みであるということに気付くのではないでしょうか。

 イエス様ご自身も、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)と仰いました。「悔い改める」ということが、福音を信じる前段階にある過程として重要であることを見逃してはならないと思います。

 「悔い改める」という言葉をあまり聞きたくない風潮が、日本のキリスト者の中にもあるのでは…と思うことがありますが、福音の真髄を理解するためには、通るべき必須の過程であると思うのです。

 多く赦された者として、多く主を愛して仕えていく僕になりましょう。ハレルヤ!