message-2011/8/7

8月7日 『天からのしるし』 マルコによる福音書8章1~21節

8:1 そのころ、また大ぜいの群衆が集まっていたが、何も食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、
8:2 「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。
8:3 もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」。
8:4 弟子たちは答えた、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」。
8:5 イエスが弟子たちに、「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります」と答えた。
8:6 そこでイエスは群衆に地にすわるように命じられた。そして七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子たちに渡されると、弟子たちはそれを群衆に配った。
8:7 また小さい魚が少しばかりあったので、祝福して、それをも人々に配るようにと言われた。
8:8 彼らは食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七かごになった。
8:9 人々の数はおよそ四千人であった。それからイエスは彼らを解散させ、
8:10 すぐ弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。
8:11 パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。
8:13 そして、イエスは彼らをあとに残し、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。
8:15 そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。
8:16 弟子たちは、これを自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。
8:17 イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか。
8:19 五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか」。弟子たちは答えた、「十二かごです」。
8:20 「七つのパンを四千人に分けたときには、パンくずを幾つのかごに拾い集めたか」。「七かごです」と答えた。
8:21 そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。

 「天からのしるし」とは、「神からのしるし」であり、「父なる神の業」として、福音宣教に伴ってイエスがなさった数々の力ある業、奇跡です。イエスは、すでにそのことを至る所で行っており、パリサイ人もそのことを知っていたはずですが、ここで敢えてイエスに「天からのしるし」を求めています。それはあくまでもイエスを試みるためでした(11節)。彼らの求めの動機が神の御心にそぐわないので、イエスは、そのようなしるしは与えられないと仰って彼らのところから去りました。

 そして 弟子たちに、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われました。しかし、彼らは、その言葉の意味を正しく理解できませんでした。少し前にイエスが、7つのパンと少しの魚によって四千人ものお腹を満たす奇跡をなさり、残ったパンが7かごもあったのに、弟子達はたった一つのパンしか持ってこなかったので、イエスはそのことを責めているのだろうか…と互いに論じあっている彼らでした。 

 そのような弟子たちにイエスは、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。 目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか」(17、18節)と仰り、五千人のお腹を満たした時のこと、四千人のお腹を満たした時のことを彼らに思い出させる質問をされました。それでも、彼らはまだ悟ることができなかったようです。

 イエスにとって、必要であれば一つのパンだけで弟子達のお腹を満たすことは十分可能なことでしたから、弟子達は、イエスが、自分達が考えているようなことを仰る方ではないということにすぐに気付いて、「パリサイ人のパン種、ヘロデのパン種…」というパン種を譬の意味をすぐに悟ってくれてもよいものですが、彼らはイエスがなさった奇跡を見て聞いて体験していながらも、心が鈍いためにイエスの言葉を悟ることができなかったようです。

 イエスは、パリサイ人達がイエスを試みる動機で「天からのしるし」を求めてきた時に心の中で深くため息をつかれましたが、イエスのみ側近くで「天からのしるし」を見て聞いて体験している弟子達であっても、その心の鈍さゆえに、イエスが話すことを悟ることができないでいる彼らに対しても心の中で深くため息をつかれたことでしょう。

 イエスを救い主と信じて、イエスに従って生活を共にしている弟子たちは、主の御心の近くにいる存在ですが、側にいても心が鈍いと主の御思いを理解できないということになってしまいます。イエスはとてもがっかりされたことでしょう。

 イエスは、イエスの御心近くにいる弟子たちに「パリサイ人のパン種、ヘロデのパン種とによくよく警戒せよ」と仰いました。そのパン種とは何のことでしょう。パリサイ人のパン種とは、マルコ7:6~9節でイエスがイザヤの預言を引用してパリサイ人のことを指摘した内容でしょう。ヘロデのパン種とは、マルコ6:14~29にある、バプテスマのヨハネに対してヘロデが行ったことの中に現されているでしょう。

 彼らの共通点は、彼らの心が神から離れていて、神よりも人からの評価を求めて、私利私欲に走る心の態度であると言えるでしょう。ですから、彼らのパン種は、「神から離れた心」と言えます。

 イエスのみ側近くにいる弟子達も「神から離れた心」というパン種に気を付る必要があります。「神から離れた心」は、神の御心を理解できない、無関心、無視する心です。そのような心で行う善は偽善であり独善です。 そのようなことにならないように、イエスは弟子たちに、彼らのパン種に警戒するように勧められました。

 人の目に見えない心について深い洞察を与えてくれる『星の王子さま』という物語は、体裁は児童文学ですが、子どもの心を忘れてしまった大人に向けて書かれた作品です。星の王子様が惑星を旅して地球に来ましたが、訪問した惑星には、本質的な大切なことを見失っているどこかへんてこな大人ばかりいました。 

 イエス・キリストを信じる信仰により神の子どもとされ、イエスの弟子となっている私たちも、イエスのみ側近くにいながら、神の子どもとして、神の思いを理解するということを忘れて、神から遠く離れた心で善を行って立派な信仰者になろうとするならば、パリサイ人のようになるでしょう。また、神よりも人の前での自分の体面を気にして、私利私欲に走って行くのであれば、ヘロデのようになるでしょう。

 私たち、イエスのみ側にいる弟子たちも、彼らのパン種である「神から離れた心」に気を付けなくてはなりません。イエスにより神の子どもとされた者として、神の御心から離れず、「天からのしるし」を正しい心で受け止めて、御心を悟る者となりましょう。ハレルヤ!