message-2011/8/14

8月14日 『イエスさまのように』  マルコによる福音書8章22~26節

8:22 そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。
8:23 イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。
8:24 すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。
8:25 それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。
8:26 そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。

 先々週7月31日のメッセージ『イエスさまの方法』(マルコ7:24~37)において、イエスが二人の人に奇跡をなさった時のそれぞれの方法について考えてみました。イエスは、彼らのことをよくご存知で、彼らにとって一番合う良い方法によって奇跡をなさいました。それは、イエスが私たち一人一人を特別な存在として取り扱ってくださる方であり、私たち一人一人を特別な存在として愛してくださっているということを現しておられることでもあります。

 この度の聖書箇所においても、イエスが盲人の目を見えるようにされた時に、特別な方法でなさっているのを見ることが出来ます。イエスはいつも最も適切な方法で私たちのために仕えてくださる方です。今日は、私たちも「イエスさまのように」最も適切な方法で人に仕える者になるということを考えてみましょう。

 そのために、先週8月7日のメッセージ『天のしるし』(マルコ8:1~21)の中で考えた、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」(8:15)とイエスは弟子たちに語ったけれども、彼らはイエスの言葉を悟ることができなかったことから学びたいと思います。

 このパン種というのは、「神から離れた心」というパン種と理解して良いと思います。弟子たちは、イエスと共に生活して神のみ側近くにいる人たちでしたから、パリサイ人やヘロデよりは神の御心の近くを歩んでいる人たちでした。しかし、イエスが語る言葉を十分に正しく理解することが出来ないでいました。これは、彼らがまだ聖霊を受けていなかったからかも知れませんが、イエスを信じて主の弟子となっている私たちも、「神から離れた心」というパン種に気を付けることは大切なことですが、主の弟子として主の御心の近くを歩んでいても、主の御心を十分に正しく理解して生活しているだろうか…と省みる必要があるのではないでしょうか。

 なぜなら、イエスのように最も適切な方法で人に仕えるようになるためには、イエスが父なる神と一つ心になって(ヨハネ10:30)、その生涯において父なる神の御業を確実に実現しておらたこと(ヨハネ5:19,30、36、6:38~40)に倣うことが大切だからです。そのために私たちは、神の御心と一致できるように、御心を悟る必要があります。それは日常の小さな事から始めましょう。どんなことでも祈り心を持って、イエスの名によって神に相談して御心を求め、御心を正しく理解して、理解したことを神の時に神の方法で神と共に実行することの経験を重ねていく必要があります。神様は完全な方ですが、御心を受け取る私たち人間が不完全なので、御心を正しく理解して神の時に神の方法で神と共に実行することが出来ないことが多くあります。しかし、小さな事から主の御心を実現していくことの訓練を受けて、失敗を含めた経験を重ねることにより、主の御心を理解して的確に実行していくことの感性(霊性)が養われて、イエスのように最も適切な方法で隣人に仕えていく者になっていくのではないでしょうか。

 主のみ側近くで、主の御心を悟り、主の御心を的確に実現していくイエスさまのような人に日々造り変えられていきましょう。ハレルヤ!