message-2012/11/18
2012年11月18日 『傾聴』 ヨハネによる福音書4章1~26節
4:1 イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、
4:2 (しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)
4:3 ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。
4:5 そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、
4:6 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。
4:9 すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。
4:10 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。
4:11 女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。
4:12 あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。
4:13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
4:15 女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。
4:16 イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。
4:17 女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。
4:18 あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。
4:19 女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。
4:20 わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
4:21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
4:25 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
4:26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。
イエス様とサマリアの女性の会話の展開は非常に不思議な展開です。
井戸の側で座っているイエス様が、水を汲むために井戸のところに来たサマリヤの女性に、「水を飲ませて下さい」(7節)と声をかけられたのが始まりで、そこから、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(14節)という「永遠の命に至る水」の話になり、「夫がないと言ったのは、もっともだ。 あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」(18節)と、彼女の罪深い私生活を浮き彫りにするような言葉をイエス様から言われた彼女は、イエス様を預言者と思い、次に礼拝のことについて話が展開していきます。「まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(23~24節)と、礼拝についての真理をイエス様が語られると、彼女は、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」(25節)と語り、イエス様はそれに対して、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」(26節)と、ご自分がキリストと呼ばれるメシヤ、救い主であることを伝えました。
「水を飲ませて下さい」から「私が救い主です」に至るまでのこの話の展開には、イエス様の彼女に対する深い洞察と理解と愛の配慮があると思います。
イエス様は、神が人となられた救い主なので、すべての人の必要を知っておられて、適切な声かけと質問と、真理を伝える話の展開にもって行くことが可能なのだと言えます。私たちが、このイエス様の会話の方法に学ぶとするならば、「傾聴」という言葉がぴったりかもしれません。傾聴は、心と目と耳を用いて相手の言葉の奥にある言葉にならない言語を聴こうとするものです。でも、人間には限界があります。だからこそ、祈り心を持って、会話をする相手と会う前に祈り、会話の間も心の中で祈り、会話が終わり別れたあとも祈ることが必要です。そうすることによって、すべてのことを知っておられる神様に聞きながら相手のことを知り、理解し、愛の配慮を持って、真理をお伝えする会話に導かれていくのではないでしょうか。
傾聴は、奥の深い愛の働きです。イエス様に倣って、相手がもっとも必要としている心の奥深くの飢え渇きに応えていく会話に導かれるように祈っていきましょう。ハレルヤ!