message-2012/12/2

2012年12月2日 『インマヌエル―神われらと共にいます―』

マタイによる福音書1章1~17節、23節

1:1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、
1:3 ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、
1:4 アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、
1:5 サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、
1:6 エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、
1:7 ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、
1:8 アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、
1:9 ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、
1:10 ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、
1:11 ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。
1:12 バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、
1:13 ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、
1:14 アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、
1:15 エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、
1:16 ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。
1:17 だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。

1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。

 約2000年前に、私たちの救いイエス・キリストがお生まれになったことによって「インマヌエル―神われらと共にいます―」という、イザヤ書7章14節の預言が成就しました。

 そして今に至るまで、イエス様を救い主と信じる人の内にこのことを実現してくださっています。

 「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」お方です(ヘブル13:8)。また、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」とおっしゃってくださる方です(ヘブル13:5)。それゆえに私たちは、「主はわたしの助け主である。わたしは人を恐れない。人はわたしに何ができようか。」と言うことができます(ヘブル13:6)。

 マタイによる福音書1章1節から17節のイエス・キリストの系図を見るときに、イエス様の母となったマリヤ以外に四人の女性の名前が書かれています。

 タマルは舅との姦淫によって子を産みました。ラハブはかつては遊女でした。ルツはイスラエル民族ではなくモアブ人でした。バテ・シェバは、ウリヤの妻であるのにダビデがウリヤから奪いました。普通に考えると、家計図の汚点となるような背景のある女性たちです。その彼女たちの名前をわざわざ書き込むということには、深い意味と目的があるように思います。

 考えれば、私たち一人ひとりの過去の歩みを省みると、沢山の汚点があります。そう考えると、偉大な救い主の家計図にある女性たちの背景が重なって見えてきます。 そして、汚点だらけの私たちの罪を赦すためにイエス様はお生まれくださったのだ…と思い巡らすものであります。

 罪深い人間のただ中に、救い主イエス様がお生まれくださった。神が人となってお生まれくださった。この事実に、私たちは神様の深い愛と憐れみを感じるのです。

 「インマヌエル―神われらと共にいます―」というこの事実の中に神様の愛を思い巡らしながら、主のご降誕をお祝いするクリスマスの備えとしてのアドベントを過ごしましょう。ハレルヤ!