message-2012/4/1

4月1日 『なぜ、祈るのか』 

ヨハネによる福音書17章20~26節、ルカによる福音書22章39~46節

17:20 わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。
17:21 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
17:22 わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
17:23 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。
17:24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。
17:25 正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。
17:26 そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。

22:39 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。
22:40 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。
22:41 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、
22:42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。
22:43 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。
22:44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。
22:45 祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって
22:46 言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。

 私たちの信仰生活において、すべての面でイエス様が模範を示してくださいました。祈ることにおいてもそうです。

 イエス様は十字架で死なれる前の晩に、弟子達との最後の夕食の席で、弟子達のために父なる神様にお祈りしました(ヨハネ福音書17章)。御側にいた弟子達のためだけでなく、彼らの語る福音を聞いて信じている人達のためにもとりなしの祈りをしてくださっています(20~26節)。それは、現在の教会に属する私たちのためのとりなしの祈りでもあります。

 イエス様は、「神様と私たちが一つになること」、「イエス様の弟子となった私たちが一つとなること」を切に祈られました。

 私たちも、とりなしの祈りをするときに、「神と人」、「人と人」が和解して、平和な関係を築き、一つになることを願って祈ることが大切です。この世のご利益宗教の祈りとの違いはここにあります。無病息災、家内安全、商売繁盛などの物事がうまくいくことがとりなしの祈りの目的ではありません。様々な問題、課題を通して、イエス・キリストにより、神の思いと人が一つ思いにされること、人と人とが思いを一つにすることを願い、神様の栄光が現されることを求めて祈ることが大切です。

「 そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。(26節)

 イエス様は、ご自分のためにも祈られました(ルカ22:39~46)。

 イエス様は、ご自分と父なる神様の思いが一つになるまで祈られました。

 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。(42節)
 

 ありのままの正直な自分の姿を神様の前に差し出す祈りは、私たちにとりましても、とても大切な祈りです。神様は私たちにいつも、「あなたはどう思う?」、「あなたはどうしたい?」と本音のところを聞き出してくださいます。

 本音のところで、私たちの思いが神様の思いと一つになっているかどうかが大切です。

 イエス様がこれから受けられる杯は、私たちすべての人の罪をその身に負って、私たちの身代わりとなられて罪の罰を十字架刑によって受けられる杯です。裏切られあざけられ唾をかけられ、殴られむち打たれ茨の冠をかぶせられ、十字架に釘で両手両足を打ち付けられ…人としての肉体的な苦しみの杯もさることながら、何一つ罪を犯していない聖い神でありながら人の姿をとられたイエス様が、私たちの罪をすべて負って罪びとの一人に数えられ、それゆえに父なる神様との断絶を味わうということ、世界が造られる前からいつも父なる神様と一つであったのに…神としての霊的な苦しみの杯は耐え難いことであったと思います。その悲痛な思いが、この祈りに込められていると思います。そして、イエス様はご自分の思いを否定して、父なる神様の御心がなるように、ご自身を委ねました。

 私たちも、イエス様のように、自分の思いと神様の思いが一つになるように祈り通す必要があります。自分の思いを神様の思いに従わせていくことが困難なときにでも、そのありのままの自分の思いをお話して、最終的には委ねていくことが大切です。そのような時、私たちにも、天から御使いが遣わされて力づけてくれることでしょう。また、何よりも、イエス様を信じることによって与えられている助け主の聖霊が、言葉にあらわせない切なるうめきをもってとりなして、神様の御心にかなう祈りに導いてくださるでしょう(ローマ8:26~27)。

 イエス様が祈られたように、私たちも祈ることができるように、聖霊の助けを求めていきましょう。ハレルヤ!