message-2025/05/25

『復活のイエスとヨハネ』 ヨハネによる福音書21章20節、13章23節、19章26節、21章7節

20ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。 21ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。 22イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。 23こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
24これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。 25イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。

ヨハネによる福音書 21章

 「メッセージ要約」
ヨハネによる福音書の著者であるイエス様の弟子のヨハネは、なぜ、自分のことを「イエスの愛しておられた弟子」と書いたのでしょう。ヨハネは、ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、ヨハネの黙示録の著者でもあります。
 聖書はすべて、著者が聖霊によって心動かされ導かれて書かれました(Ⅱテモテ3:16)。ヨハネ自身、この福音書の目的は「あなたがたがイエスは神の子キリストと信じて、イエスの名によって命を得るためである」と書いています(20:31)。その目的の下で、なぜ、彼が自分のことを大胆にも「イエスの愛しておられた弟子」と書いたのかを、いくつかの仮説から思い巡らしてみましょう。

① ヨハネは、第三者の視点に基づいて自分を見て書いた?…客観的(21:24)

② ヨハネ自身がそのように思い込んでいた?…主観的(19:25~27)

③ ヨハネはイエスの弟子となった者たちは皆、そのような者と認識していた?…鳥瞰的 (3:16)

④ 救いの目的は、イエスを通して実現された神との愛の関係であるということを強調し
   て伝えるため?…ヨハネの第一の手紙4:7~21

⑤ イエスがヨハネに対して特別に愛情を注いでいた?…ヨハネの黙示録1章

 どの仮説も当てはまるかもしれませんし、まったく違うかもしれません。
聖書を読むときに、なぜ?何のために?どうしてこのような?などの疑問が湧いてくると思います。私がイエス様を初めて信じた時に、ヨハネによる福音書の通読表を頂きました。
信じる前から聖書を読んでいましたが、信じた後からの聖書の読み方は全く違っていました。ヨハネは内住の聖霊様によってイエス様の愛を深く知るようになったので、自分を「イエスの愛しておられた弟子」と表現したのではないかと想像します。 ハレルヤ!

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■「ともに聴く聖書」
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