message-2011/9/11

9月11日 『イエスの名のゆえに』  マルコによる福音書9章30~37節

9:30 それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。
9:32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。
9:33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。
9:34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。
9:35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
9:36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。
9:37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。

 イエスは弟子達を愛しておられたので、ご自分の身にこれから起こるべきことを前もって話されましたが、弟子達はイエスが受けられる苦難と復活の意味を理解することができませんでした。それどころか、愛する先生が殺されることなど恐ろしいことでしたし、よみがえることなど考えることもできないことでしたので、質問することさえもできないでいたのでしょう。(30~32節)

 彼らはイエスからとても重要なことお聞きしたにも関わらず、道中、イエスに気付かれないように、自分たちの中で誰が一番偉いかを論じ始めました。イエスは彼らがしていることをすべてご存知でしたが、カペナウムの家に着いてから、あえて彼らに、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」とお聞きになりました。彼らの話していた内容が、イエスに聞かれたなら恥ずかしい内容だったのでしょう、黙ってしまいました。(33~34節)
 

 そのような彼らをイエスは呼び寄せ、神の前で一番偉い人とはどういう人であるかを教え始められました。弟子たちにわかりやすく伝えるために幼子を彼らの真ん中に立たせて、その幼子を抱いて言われました。

「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」(37節)

 道々、弟子達が論じていた「誰が一番偉いか」という話の内容は、「誰が一番イエス様のお役に立っているか」というような事であったのではないかと思います。そういう観点から見て、幼子という存在は、手の掛かる、世話を必要とする存在で、何かの働きの役に立つ存在とは言えません。しかし、イエスはその幼子を抱きしめる行為によって、幼子を大切な存在として愛し受け入れていることを弟子達に示し、37節の言葉を語られたと思います。

 弟子達は、互いに対抗意識を持って張り合っていました。しかし、イエスはどのような弟子であろうと、また、弟子だけではなく、すべての人を愛しておられるお方です。イエスが、私たち一人一人を大切な尊い存在として愛し受け入れてくださっているように、私たちも互いを尊び、愛し受け入れ合うことをイエスは求めておられます。そうすることが、イエスを受け入れることであり、また、父なる神を受け入れることであると仰っています。そして、そのことを実行している人が、神の前で一番偉い人であります。

 ピリピ人への手紙に、パウロはこのように書いています。

「2:1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、
2:2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。
2:3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。
2:4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。
2:5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。」

 イエス様が愛しておられる人に対して、イエス様と同じ思いでその人を尊び、愛し受け入れる者でありたいです。そのことにおいて、完全を目指していくのが信仰者です。

 「イエスの名のゆえに」人を尊び愛する者となりましょう。ハレルヤ!