message-2011/6/5
6月5日 「試み」 マルコによる福音書6章1~6節
6:1 イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。
6:2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。
6:3 この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。
6:5 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。
6:6 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。
信仰をテストされることが、私たちの信仰生活の中には起こってきます。
イエス様が、郷里のナザレの人々の中で、知恵に満ちた言葉を語り、力ある業を行っておられても、郷里の人々は、イエス様を大工のヨセフの息子としか認めることができなかったように、私たちも極々身近な人の語る言葉や行動について、その人に対して持っている思い込みや偏見などによって間違った判断をしてしまうことは無いでしょうか?
それが、今回考えてみたい「試み」です。 私たちは、身近な人たちの言葉をよく注意して聞く必要があります。その人の言葉の中には、神様の御心を教えてくれる言葉があるかもしれないからです。いつも心を柔らかくして人の言葉を注意深く聞いて、これは神の御心を妨げようとするものか(先週のメッセージ)、あるいは、神の御心を伝えようとしているものなのかを吟味する必要があります。
そのための訓練として有益なのは、一番身近な存在である家族の言葉によく耳を傾けて聴くということです。注意深くよく聴けば、そこから沢山学ぶことがあるのを知ることができます。 先ずは、夫婦から、親子から、兄弟から始めてみましょう。目に見える身近な人の言葉から、神の御心を妨げるものと、神の御心を伝えようとするものを聖霊の助けによって判別できるように訓練しましょう。
また、コリント人への第一の手紙14章1~5節には、私たち主にある兄弟姉妹が教会の徳を高めるために互いに預言しあうことが強く勧められています。そういう意味では、私たちは皆、預言者としての働きが聖霊の賜物によって与えられているのです。また、あるときには、神様は私たちのために未信者を用いて語ってくださることもあります。
徳を高めるとは、私たちの心が、神様の御心とひとつ心になっていくことです。預言の働きはそのために重要な役割をします。主にある兄弟姉妹はもちろんのこと、身近な家族や友人知人の言葉を、神様の御心を求める姿勢で注意深く聴く訓練をしましょう。そうすることで、神様の御心の最高の顕われであるイエス様を見失うことなく試みに打ち勝つことができるでしょう。ハレルヤ!