message-2011/8/21

8月21日 『自分の十字架』 マルコによる福音書8章27~38節

8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
8:28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
8:29 そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、
8:32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
8:34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
8:35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。
8:36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。
8:37 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
8:38 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。

 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(34節}、とはどういう意味だろう…、と考えます。

 イエスを救い主と信じて告白し、イエスに従って行きたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負うことが求められます。

 「自分を捨て、自分の十字架を負う」とはどういうことなのか…、信仰者にとって、これが一生のテーマとなることであると思います。

 私流に簡単に要約した言葉にしますと、「自分中心の考え方を捨てて、神中心の考え方で生きる」ということだと思います。

 それは、イエスが父なる神の御心を常に求めて、父なる神の御業をなさり、十字架の死に至るまで従順であられたように(ピリピ2:8)、私たちキリストの弟子たちも、そのように生きることです。

 自分中心の考え方とは、自分を中心として世界があり、神があるという世界観で、自分の欲望の満足のために神に仕えていただくという、この世の神観であり、家内安全、商売繁盛、無病息災のご利益宗教的な信仰と言えるでしょう。

 神中心の考え方とは、神を中心とした世界に自分が存在するという世界観です。この場合、神の御心を実現するために自分が存在しているという考え方になり、神が自分を用いてくださるようにお願いする信仰のあり方になるでしょう。

 では、自分の中に湧き起こる思いについて、自分中心の考え方によるものか、それとも、神中心の考え方によるものかを判別するにはどのようにしたら良いでしょう。

 「信仰の導き手であり、また、その完成者であるイエスを仰ぎ見つつ走ろうではないか」(ヘブル12:2)とあるように、十字架の死に至るまで従順であられたイエスを仰ぎ見ることによって、自分中心の考え方の古い自分がキリストと共に十字架につけられて死に、キリストの復活によって神に対して生きる者とされた、神中心の考え方の新しい自分に造り変えられていることを認めることが大切であると思います。

 イエスが、十字架の死に至るまで父なる神に従順であられたように、私たちも神中心の考え方で生きて行きましょう。ハレルヤ!