message-2011/8/28

8月28日 『イエスの言葉』 マルコによる福音書9章1~13節

9:1 また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
9:2 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、
9:3 その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。
9:4 すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
9:5 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
9:6 そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。
9:7 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
9:8 彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。
9:9 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。
9:10 彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。
9:11 そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。
9:12 イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。
9:13 しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。

 「イエスの言葉」とは、旧約聖書と新約聖書の言葉であると考えてみましょう。

 「エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた」(4節)

 モーセは、律法の代表者のような存在であり、エリヤは預言者の代表者のような存在です。その二人と語り合っているイエスは、彼らに対抗して敵対するのではなく、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイ5:17)と言われていたように、イエスが語る言葉は、律法と預言者とを完成させる言葉でした。 ですから、旧約聖書全体を「イエスの言葉」と理解しても良いのではないでしょうか。

 また、新約聖書は、イエスが語られた言葉を通して顕された神の御心を伝える内容ですので、「イエスの言葉」と理解しても良いのではないでしょうか。

 父なる神は、イエスの弟子たちに「これはわたしの愛する子である。これに聞け」(7節)と仰いました。ですから、イエスの弟子である私たちも、「イエスの言葉」をしっかり聞くことが大切です。

 イエスの姿が変わった時(2~8節)に共にいた弟子のペテロは、そのことを後の日に手紙に著わしています。

「1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。
1:17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
1:18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
1:19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。
1:20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」 (ペテロ第二の手紙)

 イエスと宣教活動を共にしていた弟子達は、当時、誰もイエスが語られた言葉を正しく理解することが出来ないでいました。それは、まだ彼らに聖霊が与えられていなかったからでしょう。彼らはまさに、「自分勝手に解釈」(Ⅱペテロ1:20)していた人たちでした。

 しかし、イエスが十字架で死なれ、三日目に復活され、40日目に天に昇られてから10日後の五旬節に、イエスが約束されたように弟子たちに聖霊が注がれてからは、彼らは、イエスが語られた言葉の意味を聖霊によって正しく理解できるようになりました。

 「イエスの言葉」は、人間の知恵や知識や経験やその他色々な人間的な努力によっては、正しく解釈することは出来ません。なぜなら、 「神がおつかわしになったかた(イエス)は、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである」(ヨハネ3:34)とのバプテスマのヨハネの証言にあるように、聖霊によって語られた「イエスの言葉」は、聖霊によらなければ正しく解釈することはできませんでした。

 そのように、「イエスの言葉」としての聖書全体の言葉も、聖霊に感じ、導かれ、動かされた人々が書き著わした言葉なので、聖霊によらなければ、正しく解釈することは出来ないものなのです。(Ⅱペテロ1:20~21)

 私たちも、聖書を読むときに、また、聖書のメッセージを聞くときに、聖霊によって正しく理解できるように、謙虚に聖霊の助けを求めましょう。

 そうすることによって、主は、私たちの思いを「イエスの言葉」によって聖く保ち、聖霊に満たされた歩みへと導いてくださるでしょう。ハレルヤ!