message-2012/3/18

3月18日 『なぜ、礼拝なのか』 ローマ人への手紙12章1~5節

12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
12:3 わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。
12:4 なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、
12:5 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。

 私たちキリスト信仰を持つ者たちが集まって礼拝するという行為は、キリストの体として集まるという意識を強くするものです。

 私たちは、共に神様の偉大さをほめたたえ、感謝の賛美を捧げ、御言葉による霊の糧を共に受けることによって、キリストに対する信仰の一致とキリストを知る知識の一致に導かれ、教会に与えられた使命を確認して、キリストの体としてひとつ思いになって前進していきます。

 神様は私たちに、「霊とまこととをもって礼拝すること」を求めておられます(ヨハネ4:24)。そのことについて、上記の聖書箇所から考えてみましょう。

 礼拝は、自分の全存在(全身全霊)を神様に捧げる行為です。また、礼拝者は、この世の価値基準に妥協せず、神様に喜ばれることを最優先して考えます。そして、礼拝者は、神様の恵みによって御言葉に導かれて生活します。

 ですから、私たちすべての礼拝者は、神様の前には裸であるので(心が丸裸で全部知られている)、偽善ではなく、心を見られる神様に対する畏れの心をもって真実で誠実な姿勢で礼拝を捧げることが求められています。

 また、この世の価値基準に妥協せず、神様に喜ばれることを最優先することを求め、聖霊の助けにより御言葉によって、的外れな思いがあれば教えていただき悔い改めて、心をキリストにより新たにされて、神様の御旨を悟って神様に喜ばれることをわきまえ知ることが求められています。

 そして、実生活の中で、神様の恵みによってキリストの体の一部としての自覚を持ち、神様の御旨を実行していくことが求められています。

 私たちは、聖霊の助けなしには、神様に喜ばれる礼拝を捧げることはできません。ありのままの姿の自分の全存在を、イエス様の救いの恵みによって神様の前に差し出して、聖霊により新たにされて、神様に喜ばれる礼拝を捧げてまいりましょう。ハレルヤ!