message-2013/1/6

2013年1月6日 『喜び ―救い―』 ピリピ人への手紙3章7~16節

3:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
3:13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
3:15 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
3:16 ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。

 私たちは、価値あるものを見い出したとき、または、それを得たときに喜びを感じます。

 パウロは、主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」(8節)に、この世のもの以上の価値を見い出して喜びを感じている福音宣教者でした。

 彼は、ユダヤ人社会においては、家柄もよく、宗教的指導者としてもエリートコースを生きてきた人でした。これらは、ユダヤ人社会においては価値あることでしたが、彼はイエス・キリストを信じ救われたことによって、それらのものは自分にとってまったく無価値なものになってしまったと言います。

 彼は、イエス・キリストを知ること、キリストの内にある自分を見い出すことに絶大な価値を置き、そのことを喜びとしていました。

 彼の生き方を知るときに、私たちも同じ信仰者として、何を喜びとして生きているのかということが問われ、自分自身を吟味するものです。

 私たちは、イエス様が再び来られるときにイエス様と同じ復活の姿に変えられて、いつまでも主と共に生きていくようなります。(20~21節)

 この世の人、物、事が与える喜びは、すべて一過性のものであり、はかないものです。しかし、イエス・キリストにより与えられている喜びは 色あせず、何ものも奪い去ることのできない永遠の輝きに満ちた喜びです。

 パウロは、「わたしにならう者となってほしい」(17節)と手紙に書いています。それは、パウロと同じように、イエス・キリストに絶大な価値を見い出し、キリストを知ること、キリストの内にある自分を知ることを切に追い求めて、喜びを共にしよう、ということでもあります。

 イエス・キリストを信じる信仰によって救われているということが、いかに価値あることであるかということを知り、そのことに喜びを感じることができることを主に感謝しましょう。ハレルヤ!